
若者は熱帯に迷い、自らを探す。
列島に記録的な猛暑を呼び込んだ高気圧は、陽が暮れてもなおこの街の空に蓋をする。本来であれば、きっと港から吹き抜ける風が街に滞留した熱気を六甲山あたりへと運んでいくのだろう。
しかし、今宵は街路樹の葉一枚なびくことはなく、そのため幾分たりとも真昼の暑さが和らぐことはなかった。ましてや風の通らない中華街の路地裏に至っては、まるで全身を沸騰した泥の底に押し込められているようだった。
「それって贅沢なことじゃないか。」
耳の奥でかつての恩師の声が聞こえる。
コンクリートの地熱はゴムの靴底を通じて足の裏に伝わり、汗は一歩一歩を踏み出す振動に合わせ全身を流れ落ちる。濡れたワイシャツは背中にぴったりと張り付き、湯気のようになって全身にまとわりつく。
それでもなお、高校時代の恩師の声がこだまする。
「それってつまり、選べるってことだろ。最高じゃないか。」
振り払うように、一心不乱に歩みを進める。
今日、会社を辞めた。
そのままの足で電車に飛び乗ったわけだが、なぜこの街に辿り着いたかは自分でも分からない。もしかしたら、むかし旅行雑誌で見た気がする鶏だかのモチーフがついた洋館を目指した気もするが、果たしてそうであったか。スマホの電池は遠に切れ、その館が何処にあるのかも分からない。
高級な住宅が連なる道を上り、足が疲れれば下り坂を選び、路地を曲がる。するとまた、見たことのない景色が目の前に広がる。
見たことのない道、見たことのない家、見たことのない街並み。
どの道を選んでも、知っている場所などひとつもない。
「迷えるなんて、贅沢じゃないか。」
まるで世界を初めて目の当たりにする幼児のように、夢中で歩く。
ふと顔を上げると、一面に海が広がっていた。光たちが競うように主張し合う華やかな世界に、思わず目を細める。
ところが次の瞬間、対岸の観覧車も停泊する豪華客船も、一切が視界から消え失せた。ただ、足元の黒々とした水面に引き寄せられたのだ。
水面は、色とりどりに輝く対岸の明かりを自らの体に映し込み、燦然とした光を湛えている。旅行雑誌に載るわけもないその光は、洋館の屋根で高らかに街を見下ろす鶏よりも、きっと優しく、勇ましい。
「無駄足が、思いがけないところに連れて行ってくれるはずだよ。」
水面をわずかに震わせるように、潮風が吹き抜けた。
三宅弘晃
キャリアコンサルタントカメラマン
キャリア心理学を応用し、その人の魅力あふれるポートレート撮影を行なっております。活動テーマは「モヤモヤを、イキイキに。」
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